花石 眞人
大阪交響楽団 首席打楽器奏者 / PUFF THE Magic Dragon
プロフィール
1964年神戸生まれ。5歳より滋賀県栗東(りっとう)に移る。金勝(こんぜ)小学校・・・高学年の頃、6歳上の兄(恭介)の影響でTHE BEATLESに目覚め、その後BAY CITY ROLLERSの虜となる。栗東中学校吹奏楽部に入部、打楽器パートに!(しかしクラスメイト達とは、念願のロックバンドを結成し、ギターを担当。バンド名はThe Naughtys 放課後は部活動に、休日はバンドの練習に励む。) 3年間の吹奏楽部での経験から顧問の藤池聡先生に打楽器の道へ進むことを勧められる。東大津高校入学と同時に山本毅先生(元京都市立芸術大学教授)の下へ個人レッスンに通い始める。一年の後、当時京都市立芸術大学助教授であられた上埜孝先生(2013年ご逝去)に引き継いで頂きレッスンを請う。クラシック音楽の勉学に励むも、ロンドンパンクムーブメントに心躍らせ、THE JAMとの出会いにより学園祭でコピーバンドのギター兼ボーカルを担当したり、他バンドのヘルプでドラムを担当したりしていた。ある日のレッスンで師匠より「ベートーヴェンのシンフォニーぐらい全て聴いとけ!!」と叱責されてしまった… 京都市立芸術大学現役受験失敗!問題であったソルフェージュ、聴音を林浅子先生(1994年ご逝去)、藤花優子先生(2017年ご逝去)、前林綾先生の下、一年間猛特訓。一浪で晴れて京都市立芸術大学音楽学部打楽器専修合格。またしても、クラシック音楽の勉学に励みつつも、学内サークルであった「劇団座カルマ」(後のDUMB TYPE)に二年間程在籍。役者として学内公演の舞台に立つ。平行して学外では、THE JAMの影響で傾倒し始めたMODSファッションの繋がりでMERSEY BEATというバンドのドラマーとして関西の数々のライブハウス等でギグを展開。関西モッズシーンの一時代を築く。これまたある時、師匠から「お前は、どこの学生なんだ!?」と叱責されてしまった… そんなこともあり、大学最後の一年間は学業に励んだ。1988年大学卒業。学生時代から始まったプロオーケストラへのエキストラや吹奏楽団体の指導、指揮などをベースにフリーランスとしての活動を始める。基本「自分が必要とされているものであるなら仕事は選ばない。」を心情に、オーケストラプレイヤーのみならず、アンサンブル、ソロと要望に応じて自身の公演を企画制作したり、1990年代前半は作曲家中村滋延氏のコンピュータ音楽作品集のCD参加やシアターピースでのパフォーマーとして、またはアムジーミュージックオフィスの企画として、子供向けのグループ「ピンク キャッツ」を結成、歌ったり踊ったりドラム、マリンバも叩けばギターも弾くといった文字通りジャンルを問わない活動を展開。この頃(不覚にも正確な記録がない…)大阪シンフォニカー(現大阪交響楽団)の団員となる。半ばには「ルンバ大阪」というサルサバンドに在籍。ティンバレス奏者として京都のクラブ「メトロ」のラティーノコネクション等、多数のライブでプレイした。2000年に「3 MOVEMENTS」と題した打楽器奏者三名のジョイントリサイタルを「いずみホール」で開催したことをきっかけに、翌年2001年に「PUFF THE Magic Dragon」と名付けたアンサンブルユニットを立ち上げ、「DFBUT!」「NEXT!」と二公演を同年に敢行。2004年に「MIX!」2005年に「STANDARD PERCUSSIVE MEETING」、2006年には「White Dreams」を開催してきた。 吹奏楽の分野では京都、滋賀の多数の中学校、高校、大学、そして一般の団体の指導や指揮に携わってきたが、特筆すべきは京都の一般バンド「吹奏楽団ハイブリッド」、大阪府岸辺にある「大阪学院大学吹奏楽部」の二団体であろう。 ロックミュージックで音楽に目覚め、イギリスのミュージックシーンに憧れる中、モッズというカテゴリーを知るに至りファッションやライフスタイルに多大な影響を受け、Motorino del Ventoで手に入れたPIAGGIO社のVESPAを乗り回し、SOUL MUSICに酔いしれんがため京都祇園の「P-FUNK BAR」に通い、まるまん寿司東通店」で真継店長が握る絶品光り物に舌鼓を打つ文字通り一太鼓叩きである。